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ふたりの夜


宮水三葉と付き合い始めて一年が過ぎた。
あの日、代々木の須賀神社の前で会ったのが出会い……というわけではない。
俺が中三のとき、三葉は高三のときに一度、出会っているらしい。そのときに三葉から渡された組紐はいつのまにか手元から無くなっていて、三葉の手元にあった。

大切な何か。
忘れてはいけないもの。
ずっと探していたもの。

いまもちゃんとは思い出せないそれは、その組紐に結ばれている気がした。

でも、それはもういいのだ。
言いようのない損失感、体の半分を忘れてきてしまったかのようなその寂しさのようなものは三葉を前にすると満たされるのだ。


三葉の住む都内のマンションにいる。今日は三葉の部屋に泊まる。
先に彼女がシャワーを浴びた。一緒に入りたいと思ったけど、勇気を出せなかった。
洗面台の鏡に映った自分の顔は神妙な顔をしていた。これからすることは分かっている。

脱衣所から出る。
電気は黄色の小さいやつにされていた。ベッドの上に三葉はパジャマを着て正座している。
その前に俺も座る。

「三葉」

そう呼ぶと彼女はほほ笑む。
小さく、瀧くん、と三葉は俺の名前を呼ぶ。三葉、と俺も繰り返したくなる。名前を呼びあうと忘れてしまった何かが埋め合わされる感じがする。
前にそうして、ずっとお互いの名前を呼びあって切りがなかった。

ベッドのうえで三葉にすり寄って、彼女のことを抱きしめる。華奢な肩、やわらかな感触。両腕に包みこめてしまうぐらいに小さいのに凛とした強さも感じる。

「瀧くん」
「三葉」

どちらともなく唇を重ねる。
戯れるように軽く触れあいながら、舌を三葉の唇にあてると、彼女はうっすらと口を開く。向こうからも舌が伸びてくる。舌が絡まる。溶けそうなぐらいに柔らかくて、味のしない舌の感触。ため息のような深い吐息が顔にかかる。

三葉の背に回した手を下にずらしていって、服の中にいれる。

「ちょっと、瀧くん!」

背筋を撫であげながらブラのホックを片手で外す。いつまにかできるようになっていた手癖だ。
三葉の前に彼女がいたわけでもないのに。

「見たい」
「……なんか釈然とせえへんわ」
「なんで?」
「べつにええんやけどな」

三葉はパジャマの上着を脱ぐ。
中途半端に外れたブラも脱ぐ。
彼女はそれを几帳面にたたんでベッドの下に置いて、まっすぐと俺に向きあう。

たそがれどきのような黄色くてうす暗い光のなかで、三葉の小ぶりな胸が見える。その胸に手でつつむ。弾力のある綿のような感触、手のひらに感じる先端の凝り。いつまでも揉んでいると、三葉が少し不機嫌になる。


もう一度キスをした。
それから裸になって重なりあう。
名前をずっと呼びあう。手元からお互いの存在が離れてしまうのが怖い、確かめずにはいられない。愛とも少し違う不安。こうして体を絡みつかせているのにふとした弾みで失われてしまうのではないか? 根拠のない不安がいっそうに体を密着させる。

汗ばむ肌をかさね、体液をまぜながら糸を縒りあわせるように手足を絡める。
三葉のなかにいれて、出して、刺激される快感を二人で分かち合うのは、別に存在している三葉と自分とが本当に一つになれたようで、だから、最後も一緒になりたいと願う。

何度も三葉の口からは俺の名前がささやかれている。俺も何度も三葉の名前をささやいている。その声に熱っぽさが強くなってきて、お互いがどこまで感じているのかが手に取るように分かる。

三葉のなかが痙攣する。
搾り取るように動くのに合わせて腰を密着させて、抱きしめる。
頭の中が真っ白になる。

小さく息を吐いた。
三葉も同じように息を吐く。

「瀧くん、好きやわ」
「俺も」

軽く唇を触れ合わせて、隣り合わせに横になる。三葉の手がのびてきて、繋ぐ。指を絡めあった。

日記に残さなかったこと

夕方の赤く薄ぐらくなった道を歩いている。

「かたわれどき、か」

この町では、夕方のことをそう呼ぶらしい。
糸守町の神社の娘、宮水三葉と入れ替わるようになって何週間が過ぎた。最初は夢だと思っていたそれは、いろいろと考えた結果、ぜんぜん夢ではなかった。
夢ではないのなら、これは現実。三葉の体に入って、あれこれすることは三葉の人生に影響をおよぼす。そう思うと迂闊なことはできない、と緊張するのだが、それも朝の内、夕方頃になると糸守町に旅行に来たような気分になっている。
今日は、いつも一緒に下校している勅使河原と名取とが用事があるとかで別行動で、一人で下校している。
そうすると余計に旅行気分になる。

糸守町は狭い。
というか、糸守湖を囲むように家があって、畑がある。だから、山手線のように右に行こうが、左に行こうが目的地には必ずたどり着くわけで、道を知らなくても迷うことはない。

足を止める。
道はアスファルトで舗装されているが、古くなっていて雑草がところどころから頭を出してひび割れている。その脇から畑に向かうためなのか舗装されていない土の横道がある。
その道のほうをまっすぐと見あげると、宮水神社の境内が見える。その隣が三葉の家だ。境内というか拝殿も大きいが、母屋もそれなりの大きさの家だ。

横道を突っきったほうが近道になるかもしれない。
冒険してみるか、と思ったのはごくごく普通の思考だった。


※ ※ ※


横道には外灯がなく、わずかに木の隙間から夕日が差しこむ程度だ。
足元もよく見えない。
失敗したかな、とふり返るが、入り口がどこかも分からなくなっている。

不安になる。
東京ではあまり嗅ぐことのない濃い草の臭いのせいで、遭難という二文字も頭に浮かぶ。
糸守町は山間にあるせいか東京よりも涼しい。だというのに薄っすらと汗ばんできて、シャツが肌にはりつく感触が気持ちわるい。
もう引き返そう、そう思ったときだ。

「三葉ちゃん?」

そんな声とともに男があらわれる。
日に焼けた肌、筋肉質な腕をして、首に手ぬぐいを下げている。土と腐った草の臭いがする。

「あっと……」

誰? と聞くのはためらわれた。
三葉なら知っている相手かもしれない。名前にちゃんづけで呼んだのだから知り合いかもしれない。三葉はこの町で顔と名前とが知られているから、あまり参考にならないかもしれないが。

「どうした?」

男は訝しげな声で聞いてくる。

「道に迷った、そんな感じです」
「まあ、もう暗くなったしな」
「そうなんです。あの、どっちに行けばいいんでしったけ?」
「途中まで送るよ」

そういって、その男は三葉の手を掴んだ。
野良仕事で硬くなった指先の感触が、三葉の柔らかい肌に食いこむ。背筋が震えて、振りはらおうとするけれど、三葉の筋力では無理だった。

「あの、」
「途中ではぐれたら大変だ。このあたりは獣道もあるからね」

男に引っぱられながら道を進んでいく。
道中の会話はない。というか、何を話していいのか分からない。そうしていると、ふいに男が道を外れて、ヤブのなかに入る。
え? と声をあげる間もなく、地面に押し倒される。
頭のなかが真っ白になる。

「三葉ちゃん、いいよね?」
「え? は?」

男はズボンのファスナーを開いて、中からちんこを引っぱりだす。赤黒いそれは勃起している。

「なんで勃ててんだよ!」
「この道に入ってくるってことは、そういうことでしょ? 宮水神社の人間がどういう意味か知らないわけもないし」
「どういうことだよ?」
「三葉ちゃんとできるなんて」

男は、ははは、と笑いながら、俺のシャツに手を伸ばした。ボタンを外そうとする。その手を掴んで止めるが、まったく敵わない。

「やめろ!」

叫んでも男は中断する気配もない。
第二ボタン、第三ボタンと外されていく。空気が直接、肌に触れる。その冷たさと男の指が肌をなぞる感触にぞっとする。男は、何事かつぶやきながらブラに手を伸ばした。

「着け方がよく分からないんだから外すな!」
「乳首、茶色なんだね」
「知るか!」

男の手がおっぱいを掴む。
むにゅと潰れる。
自分で揉んだときはまったく違う感触。そのまま男は力任せに揉みはじめる。加減の知らないそれは自分でしたときとは違って、単純に痛い。触りつづけたら変な気持ちになりそうとか、そういう気配さえない。

「痛いって、やめろって、おい!」

三葉ちゃん、と男はいって、片手でおっぱいを揉みながら、もう片方の手を三葉のスカートのほうに伸ばしていく。スカートをめくり、パンツの中に指を入れる。陰毛を掻き分けながら指が割れ目のなかに伸びていく。やわらかな肉の合間にささくれだった指の硬い感触がする。

「くそが」
「熱くなってる」

指が股間でうごめく。
割れ目の先端にあるところを執拗に押しつぶす。そのたびに頭の内に真っ白な感触が走る。相変わらずおっぱいは痛い。

全身を動かして男を拒絶する。
でも、三葉の体は小さくて、華奢で、大きな男に組み敷かれると何もできない。どうしようもない無力感に絶望しそうになる。元の自分の体だったら、と思うが、それは東京にいるし、いまは三葉が中に入っている。
時間的にバイト中で、奥寺先輩とホールを走り回っているはず。

「三葉ちゃん、泣いている?」
「うるせえ」
「でも、気持ちよくなるよ。三葉ちゃんも望んでるでしょ?」
「くず」
「実は、みんなにそう言われるんだ」

男はそういって執拗にパンツのなかをいじってくる。
知りたくない、知ってはいけないと思っていた感触が少しずつ頭に染みてくる。自分のもとの体のときでしたのと似ていて異なる感触。それでも、男の指がクリトリスを押すたびに腰が反応する。
気持ちよさを止めることができなくなってくる。

「やめろ! それ以上やめろ! ほんと、やめろ! がっ」

内臓が縮むような感触。
呼吸が止まる。
内臓が落ちるような感触。鈍い痛み、それから股の間に何か粘ついた液体が吐き出される。気持ちよさは退かない。虚脱感は変わらない。全身の筋肉が弛緩する。ずきずきと股間が痛い。

男は、三葉ちゃん、と言いながらパンツを脱がす。足の先からパンツが抜ける。男と距離ができる。最後のチャンス、と思った。体は先に反応して、飛びはねるようにして起きあがる。そのまま、山道を下るように駆けだす。

「ダメだよ」

そんな声が背後から聞こえる。
全力で走る。
でも、遅い。ぜんぜん遅い。思った速度ではしれない。すぐに男が追いついてきて、そのまま押し倒される。倒れた衝撃で息が止まり、もがくように開いた口に土が入る。

腰を男に掴まれる。
下半身に視線が集まっているのが不思議と分かった。股間の、尻のあたりに熱い塊を感じる。それが押しつけられながら尻の穴のあたりに下がっていく。トイレのときに恐るおそる手を触れた箇所で止まる。

「死ね!」

叫んだが、意味はなかった。
ミリ、と体の中で音がした。
裂ける痛みだ。
さっき感じた絞られるような痛みとは違う。癒着した肉が無理やり剥がされる感触、血の滲む痛み。でも、さっきの無理やりのせいで中は湿っているらしい。訳がわからなかった。

「死ね、やめろ!」

内臓を押し拡げながら、男のちんこの先端が三葉の子宮の先端に当たる。それでも男は押しこむのを止めない。子宮が押しあげられる。

「三葉ちゃんの中はせまいね。とっても気持ちいいよ」
「しね」

男は奥まで押しこんだまま動きを止める。
顎を肩に乗せる。三葉の頬に頬ずりする。

「三葉ちゃんは小さいよね。こうやってぎゅっと抱きしめると、ほんと」

下腹部の圧迫感で、もう何も答えることができない。

「出そう」
「は?」

血の気が引くのを感じる。
同時に体の中に入りこんだちんこが痙攣するのを感じる。痛いぐらいに締めつけているせいで、小さな動きでも分かってしまう。

「まて、それはダメだ。ぜったいにダメだ?」
「出ちゃった」

吐気がした。

「やめろよ。この体は三葉の体なんだよ」
「赤ちゃんできたら、ちょっと面倒だね」

こいつ……!
そう思うも、まだ男のちんこは硬いままで、体のなかで動き始める。

「イッたあとにうごくと凄く気持ちいい」

膣は男の精液のせいもあって滑りやすくなっていた。
男は力任せに何度も腰を振った。抜きかけて、奥まで押しもどす。その男のちんこの先で子宮が押しあげられるたび口から息がもれる。ひっ、とか、ぐえ、とか。ぜんぜん色っぽくない。蛙が潰れるときにもらすような声だ。

早く終われ、とそう思うようになっていた。


※ ※ ※


お風呂禁止。
そういう約束だった。でも、いま頭からシャワーを浴びている。

汗を落として、中に出された精液を指で掻きだす。
子宮の中に入ってしまった分をどう出すのか分からなくて、オナニーもした。そうすると粘ったとした液体が出る。何度かして、それっぽいも出なくなったのを確認する。

今日のことは絶対に三葉には言えない。
そう思いながらパジャマに着替えた。制服のシャツとスカートは汚れてしまっている。山で転んだ、ということにしよう。そんな嘘を三葉のスマホに日記として書いた。

布団の上に横になる。
見慣れない三葉の家の天井をしばらく見つめ、まぶたを閉じた。
赤ちゃんはできていませんように、とそんなことを思った。

アーモンド式

 
 アーモンド式の自殺が流行っている。
 それは劇薬を注射したアーモンドをチョコレートでコーティングして、食べることだった。甘み、香ばしさ、それから死。苦しくないと評判で、試す死にたがりは多いのだという。こっそりと囁かれる噂。だれもそれで自殺したひとを知らない。
 マリーとステラとは双子の姉妹、運命共同体、生まれたときから首輪でつながっている。マリーが死んでしまったらステラは生きていられず、ステラが死んだらマリーもあとを追う。そういう首輪で二人はつながっている。
 マリーはアーモンド式に興味があった。ステラは興味がなかった。物心がついたころから同じものが好きで、同じことをしていて、その鏡のような同じが好きだった。
 マリーはステラの口にアーモンドチョコレートを押しこみながら、キスをした。舌をつきいれて、ステラを強引に犯す。ステラが口のなかにはいったチョコレートを飲みこむまで唇を離さなかった。ステラは強引にチョコレートが喉をくだると、ムキになって、マリーの頬をはたいた。乾いた音。マリーの頬が赤く腫れる。ステラはそれを見て、自分の頬が痛くなったような気がした。
 ステラはある男に恋していた。それはマリーもそうなるべきだと思ったけれど、違った。マリーはその男のことがどうでもよかった。ステラは寂しかった、マリーは寂しかった。同じでなくなるのが、自分から離れていってしまうのが。
 マリーはアーモンド式に興味があって、そのことばかり考えていて、ステラはあの男が好きで、そのことばかり考えている。マリーは頬を押さえながら、アーモンド式の自殺について、あらためてステラに説明して、アーモンドチョコレートをもうひとつぶ口にふくんだ。ステラは口のなかに残った甘みとナッツの香ばしさを感じながら、マリーを見つめた。
 マリーはステラを抱き寄せて、もう一度くちびるを押しつけた。マリーの口のなかで咀嚼されたチョコレートが、粘着質になってステラの口のなかに入ってくる。二人はそれをお互いの口のなかで交換しながら、少しずつ飲みこんでいった。そうすると、ステラはマリーの手を握りしめながら、座りこんで、お互いに体重を預けながら目を閉じた。マリーの望んでいるゆるやかな、それを待った。
 マリーは小さな声で、ステラにありがとう、と言った。そのまま二人は眠った。目を覚ますことはないだろう、とステラは思った、けれど、ステラは次の日、目をさました。マリーも目をさました。
 マリーはきょとんとしているステラに、私とステラとは違うから、と微笑んだ。

バス停と少女

 
 屋根のあるバス停で、その待合のベンチに座りこんでいた。夏で、日差しが強い。舗装されていない土の道、その路肩に生えた背のたかい雑草、その陰が日につれて伸びていくのをじっと見ている。
 始めて見る景色だ。畑と田んぼの緑が、ずっと山の裾まで続いている。木造の家が点々としている、私の知っているアスファルトと似たような住宅とは違う。ときどき吹く風につぶした草の青臭さが染みているのも違う。
 私の知らない土地、バスを乗りついで、乗りついで、乗りついだ先。地図もない、携帯電話もない、時計もない。どの辺りに自分がいるのか、分からない。荷物は一日分の着替え、少しの現金、カロリーメイトが3箱、500mlの水のペットボトル。野たれ死んでも不思議はない。早まってる、と思う。その不安は、暑さと別の不安で塗りつぶされて、すぐに感じられなくなる。
 バス停の時刻表は、二時間おきに数字が書いてある。
「おや、」
 と声がした。顔をあげる。セーラー服を着た少女が立っている。
「あなた、だれ?」
 と聞かれる。私はぼんやりと本名を答える。
「そういうことじゃなかったんだけど。まあ、まあ。私は井村。それで、××さんは何をしているの?」
「じっとしてる」
「バス待ちってこと?」
「バスに乗ってここまで来たから、違うと思う」
「違うの? でも、私は××さんを始めて見るんだけど」
「だから、だと思う」
「えー」と井村という少女は怪訝な顔をして、はっと顔を青ざめる。感情がすぐに顔にでるようだ。何を想像したか、何となく分かる。
「べつに死にたいわけじゃなくて、」と私は先回りするように「どこか、なんだかすごくすごく遠くに行きたい、と思ってしまったわけでして」
「なるほど」
 井村は腕をくみ、うなずいて、
「なら、いいところがある」
「いいところ?」
「ついてきて」と井村は歩きだそうとする。その背中に私は、
「バスに乗って、学校に行くんじゃないの?」
「こんな時間から?」と井村は苦笑しながら答えて、自分の服を見回して「これは、ほら趣味ってやつさ。だから、気にしないで。ほら」
 うながされて、私は井村のあとについて歩きだす。彼女は皮の靴なのに軽やかに土の道を進んでいった。砂埃が、ふわふわと白いソックスに付着していく。道なりに進んだのは最初だけで、ふいに井村がこっちと薮に入っていく。いままで以上に濃い草の臭いに目眩のようなものを感じる。道のようで道でないような、井村が踏み固めた道は、やがて森のなかに取りこまれる。ひんやりとして、空気が湿っている。木もれ日があって、遠くで水の流れる音がしている。目の前に階段状になった石段が見える。井村はそれを登っていく。石段のうえには木目が剥きだしの鳥居が見えた。しめ縄がきれて、どこかに行っている。石段を登りきると、開けた場所にでた。社はなく、手水場もない。その中心で井村は、いつ手にしたのか木の枝を持って、何か模様を書きこんでいた。見たことのない文字、雰囲気は英語の筆記体みたいで、英語と違うのは文字が上から下にすべるように続いていること。
 井村は、
「ここに立って」
 と私に笑いかける。井村の書いた模様の中心を指さしている。
 子供のころのごっこ遊びみたいで、私は何だか笑いながら、井村のことばに従った。
「遠い世界へ!」と井村が言った。それが、手品師の合図みたいになって、目の前が真っ暗になった。よろめいて、掴むものを求めて手を伸ばすと、硬いものに当たった。それに体重をかけながら、何とか踏みとどまる。視界が戻った。見知った光景がある。駅前のロータリーだ。支えにしたのはバスの時刻表で、駅前広場の時計は、私が最初にバスに乗ったのと同じ時間を指している。
 夢なのか、どこまで夢なのか。正夢かもしれないし、そうじゃないかもしれない。ともかくここでバスに乗る気はうせていて、ふらりと私はバス停から離れて、自分の家に帰ることにした。遠いところへ行きたい、と焦がれていたのが感じられなくなっている。やり遂げたあとの満足感がある。なら、もうどこかへ行く必要もない。
 嫌なことはあるし、不安もまだ解消されていないし、問題は山積みではあるけれど。
プロフィール

sadistictorism

使用者:sadistictorism
 
 肥大化した自意識で糖尿病にかかっちまえ!

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