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おもいこみの淫魔

 小さな羽虫のようなそれがフラフラと空を飛んでいたが、やがて力つきたように食べのこしたカップ麺の油の固まった液面に落下して溺死して、ぼくは、昨日の出来事を明日のように幻覚した。すなわち――着ている服を一枚いちまい脱ぎながら、ぼくにセックスを迫った彼女のことである。彼女は淫乱だった、だらしのない笑みをうかべ、ぼくの部屋に入ると必ずと言っていいほど服を脱いだ。何がなくても必ず裸になり、ぼくを誘惑した。
「騙されないぞ」
 呟くと、彼女はケタケタと笑いながら鏡の中に入っていく。彼女は鏡の世界の住人なのだ。あの鏡は、ぼくの実家の屋根裏に置かれていた祖母の使っていた年代物の化粧台だ。観音開きになっている扉を開けると、そこにくすんだ鏡があり、その中には、ファンタジーのように異世界へつながっていた。ぼくはそこで、リリスに会った。アダムの最初の妻だ。ぼくは望んでリリスを誘惑して、
「騙されないぞ」
 ぼくは玄関のドアを乱打して、執拗に新聞の購読を勧めてくる中年の男に向かって叫んだ。

    ガンガンガン!
        ガンガンガン!
            ガンガンガン!

 ドアは執拗に叩かれる。ぼくは耳を塞いで毛布をかぶる。食べかけのカップ麺が異臭を放っている。あんなものをぼくは食べていたのだと思うと、吐き気がぶり返してくる。小さな虫の浮いた油の浮いた液面は、地獄の生き写しだ。その鏡のようになった液面は、天井裏の化粧台と同じで異界に通じている。そう、そこではリリスがぼくの帰りを待っているのだ。

    ガンガンガン!
        ガンガンガン!
            ガンガンガン!

 ぼくは布団から起きあげると、カップ麺の容器を手にして玄関のドアを開けた。そこには誰もいない。アパートの共同通路とそこから望む町並みが見えるばかりで、ぼくはその頼りない夜景――外灯ばかりがポツポツとあり、それ以外には疎らに民家があるばかり――に向かって、カップ麺を放りすてた。肩で息をしながら、ぼくはそのまま家をでて、アパートをでて、夜の町を徘徊しだした。
 青春なのだ、と、青春であることを意識することで満足する自尊心が何よりも、ぼくは嫌いだ。それでも久しぶりに歩く外は気持ちがよかった。夏の気配のする生温かい風も部屋の中の充満して滞留した空気には比べるべくもない。足を使い、歩くことの揺れや乳酸が溜まっていくことへの心地良さは、期待はずれのマゾヒズムだ。

    ガンガンガン!
        ガンガンガン!
            ガンガンガン!

 頭の中で音がする。扉を叩く音がする。外出しても執拗にあの中年の男は、ぼくに新聞を購読することを強要する。中年の男から逃げいていると最中に道路脇の花壇に投げすてられたカップ麺を発見した。その空き容器の下には羽虫のようなものが蝟集しており、ぼくの視線に気づくと一斉に飛びあがった。
「ベールゼブブ!」
 ぼくは飛びあがった羽虫を指さして、そう叫んだ。その声は夜の静かな死んだような町にみょうな強拍をもって響きわたり、ぼくは、遠くに見えるアパートやマンションや、その明かりのついた窓が開き、何事かと顔をだした住人のぼくを見つけてあざ笑うのをリアルに知覚した。これは幻覚ではない。
 ぼくは、彼らの笑いから逃げるために力のかぎりをつくして走りだして、道順など関係なく、知らない道だろうと知っている道だろうと区別せず走りぬけた。そうすれば、地図にも載っていないような場所にでるんではないか、と、淡い期待を抱いて、それでも、たどり着いたのは町の外れにある倉庫街で、前にも同じような理由で来たことのある場所だった。
 ぼくは馴染みのある余りやって来ない場所にたどり着き、額にういた汗をぬぐって、倉庫と倉庫との間にある自販機の100円で500mlのコーラの缶を買って、地面に座りこんだ。昼間は、倉庫で荷降ろしをするアルバイトか労働者かがこんなふうに地面に座って休憩するのだろうか。
 ぼくはコーラのプルタブを引き、そのよく冷えた炭酸水を乾いてひりついた喉に流しこんだ。
 目眩のような感覚に襲われていると、携帯電話が心臓に悪い音で鳴りだして、それをポケットから取りだすと、画面に「リリス」と表示されていた。ぼくは通話ボタンを押すと、
「ねー」
 と甘ったるい声がして、
「いま、あなたの部屋の前なんだけど、中に入っていいかな。いいよね」
 と、それから、扉を開ける音がした。靴を脱ぐ音がした。ぼくは手にしているコーラの缶を口に近づけ、中身を少し飲みこんだ。
「待ってるね」という声を最後にして通話は終わった。ぼくはもう一度、コーラの缶を口に近づけ、中身を少し飲んだ。炭酸は舌のうえで弾けて、弾けて、弾けていくうちに甘ったるいだけの液体に劣化していく。
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sadistictorism

使用者:sadistictorism
 
 肥大化した自意識で糖尿病にかかっちまえ!

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